本日はよろしくお願い致します!
早速ですが、相馬さんはどのようなタイミングで“美術部”を志したんですか。
相馬:僕は、ディープだよ。水飲んでいい?(笑)
はい、どうぞ!(笑)
相馬:もともと絵描きを目指していたんです。絵じゃまったく食えないので、22、3歳くらいのときにずっと同棲していた彼女に食わしてもらってて。「劇場」って映画、みてくれた?ああいう感じですよ。世間には文句があるけど、自分を誰も認めてくれないって状況が続いていて…あの「劇場」の美術セットって、俺の昔住んでいた部屋に近いですね。
そこからどうやって今に至るんですか。
相馬:あまりにも仕事をしないから、知り合いが東宝の特撮美術でアルバイトを募集してると言って繋いでくれて。そこでサファリパークを走っている動物のバスを作ってるから、造形の手伝いをしてくれといわれたんですね。1カ月なら頑張ろうと思っていったら、やたら器用だとほめられて…次は映画をやるから手伝わないかと誘われました。
えー、なんていう映画なんですか。
相馬:『ガンヘッド』という高島兄が主役の映画ですね。それで、はじめてちゃんとした給料をもらえるようになったんですよ。その時は、美術とかでなくて現場で、ただカンカン黙々と作業してるだけでした。それで、次は『ゴジラ対ビオランテ」って映画があるよって。いままでは、バイトをしてもなかなか続かなかったんですけど、「なかなかいいじゃないか」ってほめられたのがうれしくて。それで、続けてみようかなと思いました。
なるほど!
相馬:その中で、コマーシャルと映画をやって、現場に行く中でちょっとずつデザインや図面を書くようになってきて、おもしろいなと思いつつ…今までひとりで何でもやろうとしてて…それがひとりではできないことがわかったんです。
映画ってみんなが同じ方向を向いてやっていかないと完成しないですもんね。
相馬:ですね。その工程がこんなにおもしろいものなんだなというのがいちばんの原点です。図面やデザイン画を描くようになって、自分が描いたものが形になる。デザイン画を図面化して、個人では作れないものをいろいろな人が集まってきて知恵を出して作っていくんですよ。建物もあるし、部屋もあるし、森も海も…机上でやっているときもあれば、現場に行くときもあるし、毎日変化があったのがいちばん大きかったですね。絵を描くことをすっかりわすれていて、こっちがいいかなというふうになっていきました。
それは何歳くらいのときなんですか?
相馬:26、7歳の頃ですかね。師匠について会社をやめてフリーランスになって、そのあと急に映画監督をやろうと思ったこともありました。頂点は監督だろうと思って、友達に脚本を書かせてイメージボードを作ってみたり…ドヤ街から成り上がっていく話だったんですよ。隠しカメラをもってドヤ街に行ってみたり、簡易宿舎に泊まってみたりして、みんな応援してくれていたけど、結局できなくて…もう一回美術部に戻りましたね。
美術部に戻ったきっかけは師匠に呼ばれて?
相馬:はい。先生に戻ってこいよって言ってもらいました。それから、C Mも映画も結構な数をやりましたね。今までは先生がいて作ったものが、自分に任されているというのが嬉しくて、先生の仕事は大きいから、一歩間違うと先生に傷がつくということもあります。でも、それで覚えていくんですよ。 ちょっとずつ成長していく自分がいて…
そこで美術の面白さにより気づいていくわけですね。
相馬:自分ひとりだけじゃだめだし、世界観もあるし・・・いろんなスタッフのいる映像美術が楽しかったのと、舞台美術をやったときに違う感じもいいなと思いました。その高揚感はいまだにありますね。全ての自分の経験がいまだに僕の美術の根底にあって、はじめにも言ったように『劇場』は本当に昔の自分の家の再現ですね。
凄くリアリティがある部屋でした!
どうしてそんなリアリティのある部屋つくれるんだろうって!
相馬:いつも部屋をつくるときは、俯瞰で間取りを見て…まず平面からなんですよ。自分が住んでいたとしたら、自分がどう動くかという動線からはじまって、その平面から主人公の彼はこう動くはずだという動線を決めていき、そこから立ち上げていくんです。